3日、東京地方裁判所で一つの判決が出た。オリンパスの巨額粉飾を指導した旧経営者達への判決である。判決は有罪であったが全員執行猶予がつき、会社側には7億円の罰金刑が下された。
 このニュースが3日の夜、大きくメディアで取り上げられるかと思ったが、女子フィギュアスケーターの女児誕生のニュースの何分の一かの扱いであった。大手新聞社のネットサイトでも探すのに苦労したほどである。

 この事件が長期に亘って経済犯罪ニュースとして日本のメディアでも大きく取り上げられたことは記憶に新しい。また日本の上場企業の信頼性や会計監査法人の責任、また企業統治上の欠陥が指摘され、世界中が大きな関心を示した国際的事件であった。日本の資本市場を揺さぶった事件だけに各メディアも大きく取り扱うのかと思ったが、全く当てが外れてしまった。報道の仕方も判決内容を伝えるだけでコメントも大してなく、メディアの熱の冷め方に違和感を感じざるを得なかった。

 オリンパスにウッドフォードという社長がいたことを覚えておられるだろうか。この事件の主役でもあった。後に彼が自分の著作だったと思うが、大変おもしろいことを言っている。
 それは日本ではいろんな大きな事件や事故があったとき風化が早いことを指摘しているのだ。これは日本や日本人特有のこととして、彼は不思議な現象として捉えている。
 あれだけの事件であれば、会社として本質的な再生策に一丸となって取り組むべきなのに、経営幹部の真実解明意欲がどんどん後退するばかりでなく、メディアの関心も急激に冷めて行くことが理解できなかったようである。彼が会社側との訴訟を打ち切って金銭解決を図ったのも、このどうしようもない空気の存在が大きかったようだ。自分は日本を愛したけれども、日本は最後まで風化を容認しない自分をガイジン(外人)扱いしたと言っている。

 話は少し横道に入るが、この風化現象についてウッドフォオード氏と同じように感じる大きな事件、事故があった、否ある。一つは大東亜戦争であり、もう一つは原発事故である。

 大東亜戦争はともかく、2年半前の原発事故ですらもう既に過去形に扱われているように感じる。現在形で扱われるのは選挙前の政治家の口先だけである。事故の終息、復興も進まず、事故原因そして責任追求も曖昧なままである。どんどん記憶は薄れ風化が始まっている。そして経済的理由を根拠に再稼働、はたまたベトナム、トルコへの輸出など驚天動地のことが行われようとしている。

 誤解がないように言いたいのは、だから経済活動を無視して事故責任に取り組めと言っている訳ではない。エネルギー問題は経済発展の国家課題として取り組めばいいのだ。しかし、抜本的解決スキームに手をつけず、事故責任も曖昧にしたまま風化させていいのだろうか。このまま事故の風化が進めば、戦争責任を風化させてきたと同じような解決困難な問題を将来に引き継ぐ可能性がある。事故後の噴出する難題に対して、ヒト、モノ、カネの戦略なき逐次投入は被害を拡大させるだけである。正に太平洋戦争のガダルカナル攻防戦を思い出させる。また、被災者は必ずしも日本人だけとは限らないことを忘れてはならない。

 大東亜戦争については日本人自身で清算する機会は幾らでもあった。しかし誰も何もせず沈黙した。むしろこの問題に拘ることは後ろ向きのこととして避けられてきた。310万人の犠牲に対する責任論は風化し封印された。
 旧憲法は問題があったとして新憲法に変えられた。そしてこの憲法も問題があるとして、憲法改正が今熱を帯びてきている。では旧憲法のどこにどんな問題があり、なぜそれが国家の間違った意思決定に結びついたのか。改めて問われて答えられる人がどれだけいるのだろうか。
 
 旧憲法の問題を含めて戦争責任をなぜ国家として取り組まないのかという声は数多くあった。しかし、誰も何もしなかった。そして70年近く経った今、近隣諸国から歴史認識がおかしいと猛烈に批判されている。日本人は既に終わったこととして忘れかけているが、彼等は日本人ほど忘れっぽくないのだ。
 日本人が310万人に対する責任論は終わったと考えるのは勝手だが、日本人によって引き起こされた犠牲者への責任は忘れてもらっちゃ困ると彼等は言っているのだ。

 日本人の多くは学校で昭和史を深く勉強していない。残念なことに近隣諸国の大学生と議論できるほどの知識を持った人は少ない。鎌倉幕府の成立年は言えても、ノモンハン事件の第二次攻撃の年、月を言える人がどれだけいるだろうか。しかし、近隣諸国の人々は日本人自身が行った戦争行為を伝承していないことが理解できないのだ。

 終わったことはもうどうしようもない、取り返しがつかないことも事実ではある。実はこの先の対応が世界のスタンダードと大きく違うのだ。ここで日本人はDNAに組み込まれた思考停止ボタンにスイッチが入る。次に風化忘却モードが起動しハードディスクに残っていたデータは徐々に消去されてしまう。そう表現するしか言い様がないのだ。

 ウッドフォード社長が何年日本にいたのかは分からないが、日本人の不思議な特徴を見抜いたのは驚くべき炯眼である。
 
 今日のテーマは日本人の忘れやすさについて論じるのが目的ではない。オリンパス事件のような巨額粉飾事件に見る経営者の経済犯罪について、日米の量刑格差を考えて見たいと思ってそもそも筆を走らせたが大分脱線したようである。

 さて、本論に戻って、12年近く前になるがアメリカの総合エネルギー企業のエンロンは巨額の粉飾事件※が発覚し破綻に追い込まれた。記憶されている方も多いと思うが、負債総額は400億ドルを超えるとも謂われ、ワールドコムが破綻するまで全米最大の倒産である。従業員約2万名もろとも吹き飛んだのである。
 この粉飾決算による倒産劇には巨大なおまけがついた。名門の会計監査法人のアーサー・アンダーセンが不正に関与したことと大量の証拠資料を故意に破棄したとして司法妨害の重罪に問われたのである。この結果信用を失墜したアンダーセンは会計事務所の解散を余儀なくされた。世界中にネットワークを持つ巨大会計事務所は約8万人の職員もろとも消滅した。一握りの経営者の犯罪行為が10万人を超える失業者を生んだのである。

 この不正は時価会計導入を契機とし、今では聞き慣れた損失飛ばしを無数のペーパーカンパニーに対して行ったものである。創業者の会長、CEO, COO 等の経営幹部主導による強欲、見栄がそもそもの動機だといわれている。ここに政治家、金融機関が群がった背景がある事件である。
 この不正の構図はオリンパスの粉飾決算事件※とも共通する部分が余りに多いことに驚かされる。細かい手法や規模の違いはあるが、経営者として腐りきっているところは甲乙つけ難いものがある。

 ※両事件の詳細については多くの記述がネット上にもあるので、ここでは省略した

 これらの事件に日米司法当局が経営者達を糾弾したわけだが、今回オリンパスの経営者達には執行猶予付きの有罪刑が言い渡された。
 エンロン事件のCEOには懲役24年の実刑が下され現在服役中である。最近CEO時代に貯めこんだ巨額の資産の没収と引き換えに減刑が検討されているとも伝えられている。COOに対しては幹部達が行った詳細な不正手口の供述と司法協力を引き換えに懲役10年の刑が言い渡されている。
 創業者であり会長であったケネス・レイは、2006年の公判中に心臓疾患で死亡している。大統領経験者を初め多くの有力政治家との交流があったため、死亡原因について疑惑を感じている人が多いという。

 日本の司法判断が甘いのか厳しいのか私は判断できないが、明らかに米国の経済犯罪に対する糾弾は厳しいといえる。このブログの中でカルテルの問題も取り上げているが、欧米のこの手の犯罪への向き合い方は峻烈である。
 今回の判決は日本人以上に世界の投資家達は関心を持って見ていたのではないかと想像する。私見だが、この量刑を知って日本の資本市場への信頼感が上がったとは思えない。規制緩和等を行っても基本的な部分に不信感があると、外資の日本市場への投資は活発になるとは考えられないのだ。
 また、この事件では大手会計事務所が粉飾決算に適正判断を出している。今回の事件では監督官庁等からお咎めはなかったようである。このことについて海外の投資家の声が紹介されていないので分からないが、好意的に受け止められたとは考えられない。

 
 犯罪の量刑については、それぞれの国の文化の違いもあり基本的に属地主義でよいと思うが、経済犯罪については日本は欧米先進国のレベルに合わせていく努力をしていくべきではないかと思う。カルテルのように日本だけでは完結しない犯罪がある。日本で軽い罰金刑で済んだと思っても、出張で入国した途端有無を言わせず拘束され起訴、裁判、収監という事態も起こっているようである。日本人は経済犯罪の重大性を改めて認識しないと悲劇となり兼ねないのである。

 また欧米においてフェアーかフェアーでないかは、日本人が考える以上の重みを持っていることを知るべきである。フェアーでないと言われたら全人格を賭けてでも戦う人が多いのは、負ければ特に経済界では生きていくことができなくなるからである。

 最後に、この事件にはもう一つの注目点があった。それはホリエモン事件との量刑比較である。ホリエモンは実刑を受けて過日出所したが、ホリエモンが2年の実刑であれば、このオリンパス事件では5年の実刑を下回ることはないだろうと思っていた人が多かったのではないかと想像する。自分はそれ以上の重罪に相当するとは考えていたが、もしかすると今回のような微罪扱いで幕引きする可能性があるのではないかと危惧していた。正にその通りになったわけである。
 ホリエモンの場合は違法は違法だが実刑を科されるような話ではないことは、多くの会計、司法の専門家が指摘していることである。司法による時代の寵児を裁く政治裁判、人民裁判の犠牲になったと言ってもよい。
 これに対しオリンパス事件は長期にわたるケタ違いの粉飾により日本の資本市場の信頼をズタズタにした大罪である。そもそも比較できるような内容ではないものに、司法はあろうことか整合性に欠ける量刑を科したのである。嘆かわしいことに検察は今回の判決に対して控訴しないことを決定した。

                    オリンパス裁判判決を聞いて
                                      ワシャ